鎧塚と杉本園|お茶畑に残る謎の塚の物語

この記事の内容

鎧塚とは?

この積み石、「鎧塚(よろいづか)」と呼ばれています。 でも一体これは何なのか──? 調べてみたら、地元に伝わる古い記録『神谷城誌』にその名がありました。 そこにはこう書かれていました。 鎧塚(「金谷町誌稿・口碑伝説」より) 東深谷にあり。伝え言ふ。 北条氏の遺臣に岩堀左近四郎源某なるものあり、 戦い敗れこの地に潜居(かくれ住む)せしが、 一日慨然として日(ある日心をふるい起して言う)、 今や主君滅びて又回復の望みなし、 余(自分のこと)二君に仕えんよりは寧ろ土民に伍せん(村民となろう)と、 傍らに穴を堀らしめ、 千軍万馬の間を(多くの戦場を)繙い来りし甲冑(よろい・かぶと)を取りて、 これを埋めたる所いまの鎧塚にして、 以来村民のために力を尽せしかと願い、 湯日に養勝寺を開基せり。 分かりやすく解説すると…… 北条氏に仕えていた家臣「岩堀左近四郎源某」という人物が、戦に敗れてこの地に落ちのび、村人として生きる道を選んだといいます。 「主君は滅び、再び仕えることも叶わぬ。ならば村人となって生きよう。」 そう言って、自らの鎧をこの地に埋め、その上に築いた塚。 それが、現在も杉本園のお茶畑に残る「鎧塚」なのです。 やがて彼はこの地で村人とともに暮らし、後に湯日という地に「養勝寺(ようしょうじ)」というお寺を開いたと伝えられています。

杉本園と鎧塚の関係

昭和30年頃、先代・先先代のじいちゃん達により、この地は開墾されました。 森だった場所を切り開いて茶畑にしたとき、この塚はすでに存在していたそうです。 元々の鎧塚は、石垣に囲まれ、八畳ほどの広さがあり、まわりは槇(まき)の木に囲まれていたとか。 開墾の際、現在の小型サイズに先代の手で縮小されたとのこと。 当時小中学生だった当代じいちゃん(芳樹)は、学校帰りに三輪自動車で山から木を運び出す手伝いをよくさせられていたそうです。

今も続く、塚と茶畑の暮らし

それから何十年──。 今もこの塚は杉本園の畑の片隅に静かに残っています。 そしてそのまわりでは、変わらず元気いっぱいなお茶が育っています。 この塚が本当に鎧を埋めたものか、証拠は見つかっていません。 でも、代々語り継がれてきたその存在は、確かに私たちの暮らしの中に息づいています。

最後に

時を超えて、今も茶畑の中に残る「鎧塚」。 静かに、そして確かに、この地の歴史を語ってくれています。 今日もこの塚のそばで、お茶とともに暮らしています。
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